犬と
犬の死骸は別のものである。
ひとつのものの違う側面ではない。
犬は犬。
死骸は死骸なのだ。
では犬とは何かというと、
あるイギリス人(アメリカ人だったかも知れない)が言っていた事を思い出した。
重傷を負った犬を安楽死させるか、否かという問いに対して
「走れない犬は犬ではない(だから安楽死した方がよい)」
との事である。
ちょうどその頃、
実家の飼い犬が交通事故で脊椎を損傷した。
最初に見せた獣医は安楽死を勧めた。
両親はこれに憤慨し、別の獣医のもとで手術を受けさせたが、
快復しても半身不随になるだろうと説明された。
結局犬は快復すること無く息を引き取った。
そんな事があったから余計にイギリス人の発言を記憶しているのだと思う。
確かにそういう考え方もあるなと思った。
というよりも瀕死の飼い犬に対する両親の行動は、
犬とは何かを考えた上の事ではなく、
死に直面した時の反射的な防衛行動のように思える。
放っておけば、目の前の犬が死ぬのだ、獣医にまかせれば殺される、では信頼できる獣医の元に連れて行かなければならない。
という判断と行動は驚くほど早かった。
もちろん犬がそれを望んでいたかどうかは、分かんない。
両親の行動は犬の肉体的な苦痛を延長せしめたという意味では犬に対する虐待である。
犬が死ぬのが嫌だという人間の都合で犬を虐待したのである。
そういう意味では犬は常に人間の都合に振り回されている。
犬は死んで帰ってきた。
死んだ犬は犬ではない、犬の死骸である。
だが私は彼を愛していた。愛していたが故にその犬の死骸は遺体だった。
私は遺体であり、死骸であるそれを観察していた。
体温を失い、毛皮は色艶を失い、目が乾いていく。
それは愛しい彼を失った事による悲しみの感情とは別に、観察しているのである。
映画などで、よく目の開いた遺体のまぶたを閉じる描写があるが、あれは嘘だなと思った。
死んだ犬の目は閉じなかった。やり方を知らなかっただけかもしれない。
アブラ氏がこんなことを言っていた。
>愛玩するために動物を飼うのも解剖するために動物を捕まえるのも同じジコマンだろーがよ、なんてわたしは思うけどな。
そのとおりであると思う。
両親が瀕死の犬に対して行なった事は、
死の忌避である。死というケガレを快楽原則にのっとって忌避したに過ぎない。
それだけのことだ。
犬が好きな人は、犬自体を愛しているのではない。
「私になつく犬」を愛しているのである。
坂東真砂子は仔猫を放り投げる。
雌猫の喜びを守るために。
本当に?
彼女は猫を愛しているのではない。
「雌猫の喜び」を愛しているのだ。
雌猫に性の快楽の自由を与える一方で、
その雌猫が産んだ仔猫を奪い、廃棄する。
それだけのことだ。
ペットとは要は愛玩用の家畜である。
人間が管理しやすい性質を持った野生動物をルーツとして、
さらに人間が管理しやすいように改良された人造生物である。
初めから彼らに自由は無いのである。
所有する人間の自己満足に従って生きる事が定められている。
よく家畜の権利を代弁する人間がいるが、
そんなものは初めから無いと思う。
あるとすれば、
家畜の権利を代弁する人間は権利という言葉が大好きなのである。
便利だから。
秋田県では毎年ジャンボウサギコンテストが開催されているという。
秋田白色種という品種の兎の大きさを競うコンテストである。
数年前に優勝した兎と飼い主の爺さんが縁側でインタビューを受けていた。
白くでかい兎が、爺さんの横にぴたりと寄り添っている。
人によくなついている兎がとる行動である。
爺さんは言う。
「最初は食べるつもりで育てていたんだが、
大きくなってくるにつれ情が移って、今はペットです」
家畜の運命なんてそんなもんだよなーと思った。